柵の中に12頭の成牛と6頭の子牛。その外には人力車や郵便夫が描かれている珍しい絵が、1888(明治21)年9月25日発行の「商工技芸飛騨の便覧」の挿絵にある。絵の説明には「高山町盛乳舎」とある。
 飛騨の乳牛飼育は高山町の永田吉左右衛門、森七左右衛門の二人が1882年に創業した盛乳舎に始まる。後の飛騨酪農農業協同組合である。この当時の牛乳の需要は、主に乳幼児や病人の栄養のためのもので、一般の健康者が飲むというより、いわいる薬という考えが強かった。 生産の主体が一般農家に広まっていくのは、昭和初期になってからである。
 「昭和4年2月中旬霜の降る日、三福寺の渡辺藤蔵宅において隅々集まった坂本徳治郎・坪内吉左右衛門・都竹与七郎の4名は牛乳の生産と販売を一手に行い、現金収入の路を開いて農家経営の柱にしてはどうかという段階までに進んだ」と飛騨酪農史は記している。
しかし、時代は不況の中で暗い戦争へと進むころであり、酪農経営が安定するには条件は整っていなかった。特に敗戦直後の飼料不足は深刻であった。その中で「病人・乳幼児で牛乳に頼っている人々が相当あり今牛乳の供給を断ったらこれからの人達はどうなるのか。これは人道上の問題である」という声に、消費者代表を交えた話し合いがもたれた。そして、消費者は入手できる限りの麦・米糠などを提供するという協力体制のもと搾乳を続けたという歴史がある。まさに地域とともに歩む酪農の姿を象徴する出来事である。
 都会からきた観光客は飛騨の牛乳の美味しさに驚く。そこには地域と密着しながら歩んできた歴史に裏打ちされた飛騨の酪農の可能性が隠されているような気がする。
-------------------------岐阜新聞社出版局 ひだびとのあしあと より---------------------------